■ 藤原喜明×藤原敏男 インタビューその12006.4.19

藤原喜明
1949年4月27日、岩手県出身。56歳。
ボディビルなどを経て72年に新日本プロレス入り。同年11月に藤波辰巳相手にデビュー。長く前座の鬼だったが、83年に長州力を襲撃し、テロリスト藤原として脚光を浴びた。84年にUWFへ移籍したあと、藤原組を設立。現在はフリー。

藤原敏男
1948年3月3日、岩手県生まれ。58歳。
69年10月、後楽園ホールでキック・デビュー。78年3月、モンサワン・ルークチェンマイ(タイ)を下し、外国選手として初めてムエタイ王者に輝いた。83年2月、現役を引退。しばらく格闘技から遠ざかっていたが、98年に藤原ジムを設立し、後進の育成にあたっている。



アントニオ猪木が異種格闘技路線をひた走っていた昭和50年代前半、「強さならこの人には勝てない」という2人の藤原がいた。
日本人として初めてムエタイ王者に輝いた藤原敏男と、
猪木の身辺を守る参謀として名高かった藤原喜明。
同郷(岩手県出身)の2人に、強さへの思いを語ってもらった。


ともに虚飾嫌い

――お二人の出会いからお願いします。

 藤原敏男(以下敏男) 30年くらい前かな、アントニオ猪木さんが異種格闘技路線を進めていた時、新日本プロレスの興行に出たことがありました。大阪と福岡で試合をしています。その時だったと思います。同じ岩手県出身ということで名前は知っていました。どこかで血がつながっていると思いますよ。

 藤原喜明(以下喜明) 生まれたところが2㌔くらいしか離れていないんですよ。江戸時代までさかのぼらないうちにつながっているような気がしますね。性格も似ているみたいだし。でも会長(敏男)は結構派手に活躍しておられましたね。

 敏男 強さを求めていく中で、派手になった部分はあったかもしれませんが、私生活は地味でしたよ。虚飾は嫌いだった。組長(喜明)もそうだったんじゃないですか。
 喜明 飲むことは派手だったね(笑)。


 ――藤原敏男さんのいた黒崎道場(黒崎健時会長※1)は、修練の場というイメージがありました。

 敏男 ジムの模範生でしたね。朝起きてから寝るまで、闘うことしか強要されなかった。プロなら、真剣にトレーニングして強さを見せんるんだ、と教えられていましたから。
 喜明 私は新日本プロレスの道場で、朝から晩まで関節技の取り合いとかに没頭しました。黙々とひとつのことに打ち込むのは、岩手県人の特性じゃないですかね(笑)。冬の間はじっと我慢に耐えて春を待つ風土でしたから。
 敏男 東京に出てきたとき、言葉がなまっていたので「田舎者」とバカにされたりしました。なにくそ、という気持ちがあり、それが頑張りにつながりましたね。


 ――若い頃はテニス少年だったそうです強さを見せんるんだ、と教えられていましたから。

 喜明 私は新日本プロレスの道場で、朝から晩まで関節技の取り合いとかに没頭しました。黙々とひとつのことに打ち込むのは、岩手県人の特性じゃないですかね(笑)。冬の間はじっと我慢に耐えて春を待つ風土でしたから。
 敏男 東京に出てきたとき、言葉がなまっていたので「田舎者」とバカにされたりしました。なにくそ、という気持ちがあり、それが頑張りにつながりましたね。


 ――若い頃はテニス少年だったそうですが。

敏男 皇太子殿下と美智子さん(現在の天皇皇后両陛下)が軟式テニスで恋を芽生えさせた時代です。そんな恋をしたくて、最初は軟式テニスをやったんです。動機は不純でしたよ(笑)。
 喜明 テニス!? オレはやったことなかったよ。
 敏男 やる場所がなかったんだろ(笑)。
 喜明 そうなんだ(笑)。田んぼでテニスやるわけにはいかないよな。やるスポーツといったら相撲だった。校庭や講堂、田んぼで。でも、ケンカはしなかったよ。
 敏男 私もですね。キックボクシングをやるようになって、初めて人を殴った。
 喜明 気持ちよかった?
 敏男 そうだね(笑)。公の場で人を殴ってお金もらえる職業なんて、ほかにないね。当時、住んでいた近くに目白ジム(黒崎会長が黒崎道場設立以前にやっていたジム)があって、キックがブームだったこともあり、気になって見学にいったことがキックの道に入るきっかけでした。21歳の時でした。


 ――プロの世界に入っての壁は?

 敏男 デビュー戦は日本選手相手に勝てたのですが、2戦目でタイの選手に負けてしまいました。同じ体重の選手に勝てなかったということが、すごく悔しくて。
 喜明 タイの選手は小さな子供の頃からキック(ムエタイ)をやっているのでしょう。そんな相手に負けて、悔しいと思うのはすごいことだと思いますよ。
 敏男 何の知識もないままキックを始めたから、タイがキックの本場だなんて知らなかったんですよ。子供の頃からやっていた選手と、20歳を超えてから始めた選手とでは勝負にならないのはもっともかもしれませんが、とにかく悔しかった。それがキックに打ち込む要因になりました。
 喜明 タイの選手は子供でもパンチ、キック、すごいですよね。
敏男 子供の方が純真に、貪欲にぶつかっていきますよね。体で闘い方を知っている。そんな選手にぶつかったことが、今から振り返ってみると大きな転機でしたね。
 喜明 オレの場合は、オヤジが最初の壁でした。酒を飲むとよく暴れ、子供の頃からよくぶん殴られていたので、いつかぶん殴ってやろうと。でも、体が大きくなって強くなってみると、父親相手にそれはできなかった(笑)。
 敏男 ウチの父も酒乱の気がありましたね。子供心に、いつかぶっ殺してやろうと思ったけど…。でも親子だから、できなかったね。



厳しかった師匠に鍛えられる

 ――お二人が出会われた時は、梶原一騎さんの劇画や映画(※2)の影響もあり、最強を目指す風潮が盛り上がっていた時でしたね。

 敏男 それが今の総合格闘技につながっていると思いますよ。当時、異種格闘技戦では絶対に負けない、という気持ちがありましたよ。
 喜明 オレは「最強」ということはあまり考えていなかったな。常に「もうちょっと」という気持ちでやっていたから。でも新日本プロレスの道場にはたまに道場破りが来た。その時はプロレスのメンツのために絶対に負けられないと思っていた。今の選手はプロテインとかで、体を大きくしてますよね。
 敏男 プロテインも飲まなかったの?
 喜明 プロテインなんてなかった。「根性だ!」と言われて育った世代です。根性だけじゃ勝てないけど、子供の頃なんて、強くなるには苦しめばいいんだと思って、真冬の雪が積もっているところを裸やはだしで走ったりした。バカなことをやっていた。でも、強くなろうと思っても、コーチがいるわけじゃなかったから仕方なかった。
 敏男 地方にいると、強くなるためのチャンスが少ないよね。東京に出てキックをやるようになってから、コーチの指導を受けることができた。
 喜明 16、17歳のころは、ボディビルの本を読みながら体をつくった。ボディビルのジムに通うようになったあと、元プロレスラーだったジムの会長の故・金子武雄さんが紹介してくれ新日本プロレスに入門した。


 ――当時の新日本プロレスは、ヒンズースクワット3000回とか、地獄の特訓で有名でしたよね。

 喜明 非科学的な面はあるけどね。何でこんなことをやるんだ、と思っていたけど、振り返ってみると、得るものは多かった。
 敏男 ウチでもスクワット4000回とか6000回をやらされました。スピードは組長のところほど速くなかったと思いますけど。今、ウチのジムも厳しさを求める練習をやらせています。マスコミからも「非科学的」とか言われることがあるけど、どこが非科学的かを聞くと、だれも答えられない。選手を強くするために必要なことだと思うから、肉体的、精神的な苦痛を与えてやる。それをどう克服することで強さが身につく。


――黒埼道場の厳しさは有名でしたね。

 敏男 肉体的な苦しさは強くなるために当然のこと。その気持ちがあれば受け入れられるはず。その時に「いつまでこの練習をやるんだろう?」なんて気持ちになったらダメだろうね。黒埼先生からサンドバッグのキック打ちを命じられ、そのうちに外へ出ていかれたことがあった。やめるわけにはいかないから、何時間でも打ち続けた。そのうちに電話がかかってきて、「まだやってるか?もういいよ」とか。時には、そのくらい一心不乱に打ち込んで練習することも必要だと思います。
 喜明 私もありましたよ。カール・ゴッチ(※3)の練習でスクワットの数を言ってくれない。500回と思っていたら、終わらなかったので、「1000回だあ…」と思ったら、1000回でも終わらない。1500回と思っていたらそこでも終わらない。終わりの分からない練習は本当に辛い。でも、精神力を鍛えるためには必要なことでもある。
 敏男 黒埼先生からは、常に闘うための心を養わされましたね。例えば車を運転している時、追い越し禁止の道路で追い越しさせるとか。大きなダンプカーが3、4台くらい前にいて、それを一気に追い越すなんて、すごい度胸が必要なんですよ(笑)。対向車線に車が見えない一瞬を狙って一気にスピードを出すんです。
喜明 ここだ、という勝負の時の度胸づくりですね。自分を極限まで追い詰めることの必要性なんですね。
 敏男 食事している時でも、あるいはビルを出た時でも、常に敵が乗り込んできたらどうするとかを、1日24時間、考えさせられた。結局、試合でも同じなんですよ。ここだ、という勝負どころを体で覚える必要があるわけです。
 喜明 分かる、分かる。一瞬のすきも見せてはならない。
 敏男 キックの練習をしていると、黒埼先生から「気合が入ってない」とか言われて竹刀が飛んでくる。イテェと思って振り向くと、「バカヤロー! 敵は前だ!」ともう一発飛んでくる。一瞬のすきもつくってはダメという練習でしたよ(笑)。
喜明 黒崎さんは厳しかったでしょうね。
 敏男 逃げ出そうと思ったことは何度もありましたよ。でも、「この人についていけば一番強くなれる」と暗示をかけて耐えました。本当に最強を求めた時期でしたね。カール・ゴッチさんも厳しかったんでしょ。
 喜明 1日6時間、めちゃくちゃな練習でした。ゴッチさんは強かったですよ。練習ではバーベルは使わなかった。トランプを使ってやるトレーニングが印象に残っています。出たカードによって腕、足、腹筋とかの練習をやるんです。相手がどう攻撃してくるか分からないので、いろんな状況を想定して筋肉を鍛えるんだそうです。
 敏男 佐山(聡=初代タイガーマスク)もやっていましたね。ゴッチ仕込みだったんですか。でも、マシンを使ってのトレーニングでつくった筋肉ではすぐに衰える。
 喜明 そうですね。わたしも間もなく57歳になるけど、筋肉、落ちないですよ。マシンとかに頼らずにつくったものだからね。そんなゴッチさんのもとを途中で逃げ出した選手も少なくなかった。フロリダ州タンパにあるゴッチさんの家の駐車場で半年間、練習を続けられたのは私だけです。寝技や関節技とかの基礎をしっかり学びましたよ。今でもアメリカのサブミッション教室の講師などの声がかかるんですけど、それができるのも、ゴッチさんのもとで練習したおかけです。



【※1】黒崎健時
 1930年、栃木県生まれ。極真空手に親しみ、最高師範へ。限界への挑戦のため1週間の断食や82日間の山ごもりなど独特の鍛錬を実施したことで有名。タイへ渡り、ムエタイ選手と対戦したが惨敗。その経験をもとに、キックボクシングの世界へ。藤原敏男を育てる。
 78年、全米プロ空手旋風が吹き荒れたのを機に、総合的な格闘技である新格闘術を立ち上げた。著書に「必死の力、必死の心」など。

【※2】梶原一騎
 「巨人の星」「あしたのジョー」で有名な劇作家。大山倍達の半生をつづった「空手バカ一代」がヒットして格闘技ブームを起こし、アントニオ猪木と極真空手の抗争などを同時進行で描いた「四角いジャングル」で、さらなるブームを巻き起こした。藤原敏男、藤原喜明も登場している。
 映画でも「地上最強の空手」「格闘技オリンピック」などをヒットさせた。


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