■ 「全日本空手道剛柔会」最高師範 山口剛史 インタビュー その22006.12.29

父を目覚めさせた「流祖の精神」

──これまで道場には、どのような人が、どんな想いを抱いて入ってきましたか?

「立命館大学の空手部を創設する前から、父は京都で空手をやっていました。そのときに、宮城先生と知り合って、その後に戦争があって……。戦後、父が東京・浅草に道場を開いたのが、昭和24年です。その頃の空手は、今のように組織が確立されていませんし、他のスポーツ施設もありませんでしたから、商店の小僧さんや学生さんなど、たくさんの方が道場に通って来ていました。戦後間もない頃ですから殺伐とした時代で、いろいろな流派の方も、浅草道場に来られていましたね。大山倍達先生も、その頃、来られていました。大山先生は、強さを表面に出すような部分が多かったですね。そんなことで、父とは意見が食い違って、後に極真会を作られましたよね」


──大山先生とはどのような想い出がありますか?

「私が空手を始めたのは、7~8歳の幼少期です。その頃、大山先生は、私をかわいがってくれました。でも、父の空手は相手の体に突きや蹴りを当ててはいけないという考えで、大山先生は実際に相手に当てたり当てられたりして体を鍛えていくやり方で、同じ修練をするにも、よくふたりは意見を論じ合っていました。そんな場面に私がいると、『ブンちゃん、おいで』と大山先生に呼ばれて、どうしたら強い突きが出せるか、とか、板や石を拳で割るときの訓練、とか、個人的に教えていただいたこともありました。その頃、私は大山先生から〈ブンちゃん〉と呼ばれていたんです」


──剛玄先生と大山先生との意見の相違を間近に見て、複雑だったのでは?

「父は、もともと荒っぽい空手をやっていたようです。それが宮城先生に教えを受けるようになって、このままの空手ではいけないと目が覚めたのでしょう。もともと、沖縄では、お互いの自由意志で組手をやっていないんですね。でも、父自身が空手を国内に普及させるために、立命館大学に空手部を作った頃から、お互いの技を出し合って、突いたり蹴ったりし始めていました。ですから、そういう実戦組手を父がやっていたとき、宮城先生から『本来であれば、その空手スタイルに賛成はできない。空手の本質が失われてしまう。戦いを重視すれば、単に強い弱いだけになってしまうし、互いに怪我をさせたり、怪我をしたりすることにもなってよくない。あくまでも、それは稽古として行うのはいいが、剛柔流の本質を失うような形で発展をさせないでほしい』と言われたそうです。そこで、相手が倒れるだけの突き・蹴りの練習はするけれども、実際には当てない〈寸止め〉をすることになりました。すなわち、組手を通して、相互関係の親愛の気持ちを養おうということです。結局、相手と共に成長するためには、相手を信頼しなければならないんです。その信頼の念を持たせるために、〈寸止め〉でやるというのが、宮城先生と父の考えです。一方、大山先生は、それはそれで非常に大事なこととしながらも、格闘技であるのなら、突かれても、蹴られても倒れない身体作りと、倒せる技を鍛えなければいけないという強い意志を述べておりました。たとえば、3本の竹を紐で縛って、その間を貫手で差し込んで竹を握る技を見せたり、組手においても、当然、技を止めないで当てることを認め、体当たりで相手を突き飛ばしたりして、たいへん激しい練習を好んでやっておられましたね」


──剛玄先生は、宮城先生のどんな部分に感銘して、空手のスタイルを変えたのでえしょうか?

「父が幼少の頃にやっていた空手は〈手〉でした。大学に入るまでは、父が習った型と独学でやった型を合わせた空手だったので、荒っぽい攻撃的な練習をしていたんです。それが、宮城先生にお会いしてからは、先生自身が持っている人格といいましょうか、人徳といいましょうか、厳しい練習のなかから優しさを感じていたのだと思います。私が子どもの頃、よく父に聞かされていたのは、『暴れん坊で町に出てもいさかいを起こすような性格が、宮城先生に出会ってからは、それを自分で否定するようになった。修業という意味では、体を鍛えて強くなるということだけではなく、自分を守るための剛柔流の精神を先生から習った。だから、剛柔流は自分を守り、家族を守り、社会を守るための道である』という話です。宮城先生にお会いして、父はそれまで自分がやっていた空手が、ただ体を鍛えるだけのものだったと気付いたのでしょうね。つまり、宮城先生の精神を高める空手のあり方を目の当たりにして、それを単なる格闘技としてだけではなく、人間性を高めるためのものに切り替えたのだと思いますね」


呼吸法は剛柔流の大きな特徴

──剛柔流の鍛錬方法にはどのようのものが?

「沖縄でやっていた独自の鍛錬法が、本来の剛柔流の練習です。たとえば、石や手製の器具を使っての筋力の鍛錬です。そのなかで、宮城先生ご自身は手足の訓練と同時に、鉄のワッカや甕などの補助具を使ったトレーニングをしていました。近来は、それらに代わる器具がありますが、宮城先生は当時から筋肉の構造を理解した近代的な鍛錬を重ね、なおかつ呼吸法を取り入れていたんですね」


──剛柔流には、どのような型があるのですか?

「我々は型を、基本型、普及型、開手型に分けています。基本型はさきほどお話しました〈三戦〉と〈転掌〉があります。宮城先生の時代は、3年間は〈三戦〉しかやらなかったという話があるくらい、この型を大事にしました。それによって、剛柔流の技術に合った資質ができるんですね。それと、普及型というのは、空手を地域に普及させるために、子どもたちにもできる練習法として始まったものです。また、他に特定型というのがあって、これは父が師範のために作った型なんです。指導だけに回ってしまい、練習量の減る高段者のための型なんです」


──剛柔流が他流派といちばんの違う点はどこでしょうか?

「空手という部分では、今の空手界と一緒に行動しています。ただ、そのなかで空手道の生涯武道としての意識を大事にしています。これは、他の流派も同じでしょうが……。そのなかで、剛柔系の場合は、一定期間、試合組み手で競技には参加させます。その後は、本来の練習に戻ってもらわなければなりません。競技の勝ち負けとは関係ない、自身の人格を含めた技量を高める練習が大事ですから……。そのために呼吸法が適しています。他の流派では、呼吸法だけを練習することはないと思います。呼吸法を重視した練習をしているのが、剛柔流と他流派とのいちばんの違いかもしれませんね」


──先生は学生時代にアメリカで指導されたり、現在も様々な国に行き指導されたりしていますが?

「父が〈全日本空手道剛柔会〉の他に、〈国際空手道剛柔流会〉の組織を作ったものですから、外国で修行してこいという意味があって、大学を休学して、アメリカで空手を教えていた兄の手伝いをしていました。当時は空手と言っても力道山の空手チョップがあったくらいで、少しずつ空手が外国で普及し始めていた頃です。その後は、父自身が外国の支部から要請を受けて足を運ぶこともあり、私がその名代として回ることもありました。今は外国の支部が60ヵ国くらいあります」


「剛柔流の素晴らしさ」の伝承は、私の使命

──宮城先生から剛玄先生へ、剛玄先生から先生へどのような想いが受け継がれているのでしょうか?

「正直言いまして、私は空手を好きで始めたわけではありません。たまたま気が付いたら空手をやらされていたといいましょうか……。私は三男坊ですから、父の後を継ぐなんて夢想だにしていませんでした。道場を継ぐと思っていた長男がアメリカに行ってしまい、たまたま父のもとに残っていた私が後を引き継ぐ格好になったというわけです。子どもの頃から強制的にやらされた空手ではありますけれども、今の私があるのは空手道のおかげです。なによりも空手を通して、自分自身を見詰められます。これからも、更に競技化して普及していくのであろう空手ですが、そのなかでも本来、剛柔流が持っている素晴らしさを伝えていかなければならないという使命感に燃えています」


──いつから空手を好きになられたのですか?

「私が空手を始めた頃は、練習をやらないと、ご飯を食べさせてくれないので、嫌々ながら練習をしていました。練習は夜の8時から始まり10時に終わるのですが、小学生でしたから、帰ってくるときは、人の背中で寝ていました。そういう頃から、先輩たちの姿や、いろいろな流派の交流試合を見てきたなかで、空手で培ってきたものがありました。それが大学時代に外国へいったときに、日本人の誇りといいますか、私自身の誇りが空手から見出されたんです。他国の人たちと交流を持てる空手道とは、なんて素晴らしいものなのだろうか、と」


──先生にとって空手とはどのようなものですか?

「〈道〉ですね。空手道が自分というものを維持してくれています。空手道によって自分を見直すことができるし、高めることができます。そういう意味では、私にとっての空手道は、格闘技であると同時に、私自身の精神だと思うんです」


──先生にとって剛玄先生とは?

「親子という感覚はあまりなかったですね。子どもの頃から、親父、お父さんとは呼べずに、いつも先生や師範、会長だったりしました。そういう意味での不満は、幼少期にはありましたけれど……。また、父は満州での戦争体験だとか、我々にはない波乱万丈の生活を経験していますから、カリスマ性がありました。その経験から『おまえ、死ぬときは死ねよ』とよく言っていました。というのは、父がシベリアに抑留されたときの話なのですが、武道をやっていたから危険人物として扱われ、ロシア兵が銃殺すると決めたらしいのです。それでその旨を告げにきたとき、父は足が震えてしまって立てなくなってしまったそうです。それをロシア兵たちが見ていたんです。そのとき、父はふっ切って死ぬことと決めたらしいのです。初めは死にたくないと思ったけれど、じゃあ、もう死のう、と。そうと決めたら、非常に気持ちが落ち着いてきて、立ちあがって歩くこともできたそうです。すると、ロシア兵が『怖くないのか?』『死にたいのか?』と訊いてきたから、『死にたくはないけれど、死ななければならないときは、俺も武道家だから、見事に死んでみせる』と言って銃殺台まで上がったらしいのです。それが感激されて、銃殺から逃れたそうです。父は、『あのときに自分が死ぬことを決めなかったら、笑いものになったか、強引に殺されたかもしれない』と、よく言っていました」


──先生の生き方の機軸となる考えは?

「明日のことは誰もわからないわけだから今を大切にしていきたいですね。私はいろいろな所で指導するときに、必ずベストを尽くします。明日は教えられないかもしれませんからね。そういう意味では〈一期一会〉という言葉を大事にしています。それと〈流水先を競わず〉という言葉が好きですね。俺が、俺がというのを私はあまり好みません。どちらかといえば、水の流れのように、なるようになると言いましょうか……。だから、先を急ぐのではなく、与えられた自分の使命を自分なりにこなしていきたいな、と思っています」


──最後に、空手家・格闘家・武道家を目指している人にメッセージがありましたら……。

「空手道は格闘技であると思います。でも、他人と格闘することだけが格闘技だとは思いません。本来の格闘とは自分自身との格闘であるべきです。たとえ練習のなかで他人と見比べることがあったとしても、他人よりも強くなることがすべてではありません。人と組手をするときに、その人より少し強ければいいんです。強さというのは優しさだし、優しさは自分自身の余裕でなければいけません。余裕を持つためには、当然、強くならなければいけない。とどのつまり、空手道とは自分とどれだけ向き合うことができるかだと思います」



山口剛史 プロフィール
1942年、剛柔会の会祖・山口剛玄の3男として、満州・新京に生まれる。1989年、剛玄の逝去に伴い、翌年「全日本空手道剛柔会」及び「国際空手道剛柔流会」の会長に就任し、両会の最高師範となる。

※① 宮城長順 …… 1888~1953 空手道剛柔流の流祖。中国福建省で中国拳法・武術を研鑚。

※② 大日本武徳会 …… 1895年4月に日本古来の武道の奨励を目的として京都で発足された公共の組織。

※③ 山口剛玄 …… 1909~1989 鹿児島県に生まれ、1929年に立命館大学唐手研究会を組織し、実戦組み手を考案。1950年、「全日本空手道剛柔会」を結成、会長となる。


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